檸檬

生きるための生活をしています

不明点

真っ黒くて苦くて酸っぱくて甘くて、時には暖を与え時には体温を奪い、体力の限界まで正気を搾取してしまうような悪魔が棲みついている。証拠は全くもってない。いつから居たのかも不明。寧ろ、皆が気付いていないだけで皆の中に必ず存在しているものなんじゃないか。

私だけじゃない、皆そんなどす黒い得体の知れない感情を心持ちにして生きている。

もうすぐ春が来る。私は相も変わらず今年の春を迎える。生きているという実感が欲しいな。泣きそうになっていた時に優しく包んでくれるブランケットが欲しいな。欲しいものは山ほどあるけど一番は心の休息が欲しいな。私たちは忙しいね。愛し合うことさえ忙しいね。

記録

ある日膨大な不安と恐怖を抱えて生きるようになった。それは何がどうで、誰とこうなった、という具体的なことは全く分からなくてただ辛い気持ちでいっぱいだった。思い当たる節が多すぎて正直わかることを放棄していたのかもしれない。社会に対する不満や不安を何処にぶつけようにも、自身の成長には繋がらないし他人からは馬鹿にされる毎日だし、能力はちっとも上達しないし、もういい加減人生を辞めてしまった方がいいかなと思ってた。今じゃもう馬鹿らしいけど、悩んでいたのは事実でそれが揺らぐことも無かった。悶々と考えながら一日、二日、三日、と時間は過ぎていった。時々死について考え、泣き喚く日もあった。「まだこんなところで死にたくないけど、でももうどうしたらいいか分からない。やっぱり死んだ方が楽になれるのか」と自問自答を繰り返した。最初はそこまで無かったが、少しずつ少しずつ不安は蓄積され日常生活にも不安は浸透した。心から身体へ、毛虫のように這いずり回る不安に気持ち悪さを感じざるを得なかった。他人の言葉も自分の言葉も何もかもが間違いに見えて、今頑張っていること全てを辞めたい、リセットしたいと思った。時々「逃げるなんて弱い人間がやること」という意見をぶちかましてくる人がいるけど、そうじゃないんだなと私は思うようになった。以前は私も逃げることは悪い事だと認識していたけど、全くそうじゃない。私たちは逃げるために毎日を頑張っている。いざ逃げようとした時に勇気が無いと全く逃げられない。そんな時のために「頑張る」という義務が存在するのであって、私たちは頑張るために生きてるわけじゃない。

殴り書き

「辛い」と泣き叫ぶ少女の涙をそっと拭うだけで君は優しくなれる たとえ多くの人に軽蔑の念を向けられていたとしてもその少女にとって君が優しい人であった事実は消えない、少女が「優しい人」だと思い続け、忘れなければ優しい人であり続ける 誰にとっても優しい人でありたい、私も優しくなりたい、狡いやさしさを隠し持って味をしめた大人達は今日もコンドームをジャケットの裏側に隠して他人に優しく雨を降らせている、斉藤和義が「やさしくなりたい」と五年前にしきりに叫んでいたのはこういう事だったんだ もう私たち優しくなれないのかもしれない 悲しい 偽りのやさしさだとしてもそれが私にとってのやさしさだから 君にこうやってこうして文を書いている 君を待っていたよ 今日も君が誰かに優しくされ、優しく出来るといいね おやすみ

自殺への冒涜者

 

精神はある日突然自殺する。そして失敗する。

この間私の精神は血だらけになって、私の目の前に現れた。精神だけが血だらけになっていく様を見届けるのは辛かったから、取り敢えず手首を剃刀で切った。じんわりと血が溢れて、その日は眠れなかった。

 

精神は言っていた。

「僕が生きている意味を見つけた時、本当に死ぬんだろうな」と。

生きている意味を見つけたら、あとは生きていくだけなのにどうして死ぬんだろう。

自分ながら、不思議に思って手首の傷を掻き毟った。

でもきっと、生きている意味と言うのは生涯にわたって見つけられないものなのかなとも思う。だってもしそれが見つけられてしまったら私たちは生きることにネガティブでどうしようも無い貪欲さを持っているから、きっと生きられなくなってしまう。そう、そうだ。

生きる意味を見つけ出すということはつまり、死を意味する。

だからずっと、そんなものは見つけなくていい。生きているうちは。少なくとも。

 

時々、Twitterなんかで「生きてる意味が分からない」という人がいるけど、そんなものみんな分からない。お前だけじゃない。私も、ケーキを頬張る今日が誕生日の人も、下らないプライドに左右されて危うく殺されそうになった人も、みんな。みんな同じだから生きていける。だから、そんなことを考えている人を見るとこの人生きることに真面目なんだろうな、とか勝手に思う。精神は自分の知らないところで自殺するのに。そんなことを考えていようがいまいが、ある日滅多刺しにされて目の前に現れるのに。律儀な人だ。

 

望んでも望まずとも、精神は自殺してくれる。

物心ついた時からそれはずっと。

悲しいけど、時には普通に生きろと思うけど、精神が実体の代わりに自殺しようとするから今までバランスが取れていたのかもしれない。

それに、ここで否定してしまったら可哀想だ。

私たちに出来ることはせいぜい、血だらけになった精神を優しく抱きしめることだし、首吊りに失敗して吐きそうになっている精神を優しく慰めることだ。

そこで責めたりしたら、いけない。

「どうして死ねなかったの」「どうして生きてしまったの」なんて、口に出さないで。

精神は勝手に自殺する。でもそれは、君に優しくされたいということだから。

君自身が君の殺人犯になってしまっては、ダメだよ。

水圧

 

昨夜ショックなことがあった。自分が深く知れば傷付くであろうことを知りすぎた。錆びれたナイフで刺されるような痛みが何度も心に走った。何だか感心していた。

益々人間味が溢れてきたなあと。

 

感情が豊かなのは昔からではなくて、幼少期なんかはかなり無表情で物事を見ていた方だった。可愛げの無い子供だった。保育園に預けられていても特に、傷付けられることも笑わされるようなこともなかった。自分でも詰まらない子供だったと思う。素直な方ではなかった。

その証拠にいつも、写真では無表情だった。無表情なまま、ピースをしていた。これは少しクスっときた。

 

過ぎてゆく散り散りな日々の中で、感情が豊かになった。笑うことが多くなった、いやむしろ、ずっと笑っている。緊張しいであるから、初対面の人と会話する時は口角が疲れるほどに延々と笑っている。それは電話でも、同意義。

しかしこれでは昔と変わらない気がしてならない。無表情だった人が笑顔になっただけだ。無表情という表情から笑うという表情に変わっただけで、結局は無表情のようなものだ。

時々見せる笑顔が笑いなのであって、延々と笑い続けることはもう笑いではない。それは無表情と同じだと思う。

 

だから感情に素直になれる人間が愛おしく感じてしまう。人はそれを情緒不安定とも呼ぶけど、私は既に人間であるということが、情緒不安定だと思う。

コップが私ら人間の心、水が感情だとする。コップは許容量が決まっているからずっとそれだと溢れてしまう。だから時々捨ててあげなきゃならない。私はそれが出来ない。していないに等しい。心の許容量を無視していつまでも感情を受け止め続ける。そんな人間は、私だけじゃないはずで、夜な夜な泣いている可愛い女や煙草の吸殻を道に捨てる薄汚れた男も同じ。

世渡り上手と言うのは捨てることを「捨てること」とは思わずに「必要なこと」だと理解出来る奴のことだ。

 

何食わぬ顔して、溢れさせていたいと思う。

ずっとこのまま生きていこうと思う。

ショックなことは相変わらず絶えないけれど。

孤独へ

 

「明けない夜は無いよ」って、古い昔、そんな風に彼が私に教えてくれた。

たしかに明けない夜は無くて、ちゃんと明日が来ることはもう私も子供じゃない。分かっている。と言っても子供だけど、もう、夜中に一人でトイレに行ける。

 

明けない夜は無いけど、雨が必ず1日で止むとは限らない。捻ると必ず水の出る蛇口も無ければ、「絶対」という安心も無い。

それなりに夜を越してきたつもりだけど、夜はまだまだ深い。闇は何処までも深い。恐い。

でも偶に、そんな夜に甘えたくなる。

本能で生きる動物たちにとって、夜は自分を隠して生きられる唯一の時間。

私たち人間と同じ。

 

涙を流すということが恥ずかしい私にとって、夜の闇はそれを隠すことに丁度いいし優しい。猛威を振るって暴力的になる夜もあったけど何とか今日まで生きてこられた。

 

「夜は苦手」という彼女も、きっと本当は夜を愛したい。無視出来ない悲しさが彼女を襲い続けるから苦手なんだと思う。

どうか忘れないで欲しい、夜は私たちを一人にさせるものではないことを。私たちを素直にさせてくれることを。

 

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