檸檬

生きるための生活をしています

水圧

 

昨夜ショックなことがあった。自分が深く知れば傷付くであろうことを知りすぎた。錆びれたナイフで刺されるような痛みが何度も心に走った。何だか感心していた。

益々人間味が溢れてきたなあと。

 

感情が豊かなのは昔からではなくて、幼少期なんかはかなり無表情で物事を見ていた方だった。可愛げの無い子供だった。保育園に預けられていても特に、傷付けられることも笑わされるようなこともなかった。自分でも詰まらない子供だったと思う。素直な方ではなかった。

その証拠にいつも、写真では無表情だった。無表情なまま、ピースをしていた。これは少しクスっときた。

 

過ぎてゆく散り散りな日々の中で、感情が豊かになった。笑うことが多くなった、いやむしろ、ずっと笑っている。緊張しいであるから、初対面の人と会話する時は口角が疲れるほどに延々と笑っている。それは電話でも、同意義。

しかしこれでは昔と変わらない気がしてならない。無表情だった人が笑顔になっただけだ。無表情という表情から笑うという表情に変わっただけで、結局は無表情のようなものだ。

時々見せる笑顔が笑いなのであって、延々と笑い続けることはもう笑いではない。それは無表情と同じだと思う。

 

だから感情に素直になれる人間が愛おしく感じてしまう。人はそれを情緒不安定とも呼ぶけど、私は既に人間であるということが、情緒不安定だと思う。

コップが私ら人間の心、水が感情だとする。コップは許容量が決まっているからずっとそれだと溢れてしまう。だから時々捨ててあげなきゃならない。私はそれが出来ない。していないに等しい。心の許容量を無視していつまでも感情を受け止め続ける。そんな人間は、私だけじゃないはずで、夜な夜な泣いている可愛い女や煙草の吸殻を道に捨てる薄汚れた男も同じ。

世渡り上手と言うのは捨てることを「捨てること」とは思わずに「必要なこと」だと理解出来る奴のことだ。

 

何食わぬ顔して、溢れさせていたいと思う。

ずっとこのまま生きていこうと思う。

ショックなことは相変わらず絶えないけれど。