檸檬

生きるための生活をしています

悠然

「聞いてほしいことがあるの」

彼女は突然思い立って、口に出した。ベランダ菜園を網戸越しに眺める僕は彼女の方を向かずに「んー」とだけ唸った。

彼女が大袈裟に息を吸う。まだ残暑が厳しい9月のはじめ。蝉の鳴き声がピタリと止んだ時、君は多分笑った。

 

「私 来月結婚するの」

 

 

沈黙が何だか恥ずかしかった。

僕は考えていた。思考を張り巡らせて木の枝みたいに、終わりのない迷路みたいに、考えていた。でも考えている様子は見せないように、あくまでも素っ気なく興味の無いように言葉を真に受けていないように、葉っぱに止まったアブラムシをじっと見つめながら「そう。」と答えて、もう少ししてから「おめでとう」と付け加えた。彼女は「君ならなんて言うのかなって思ってたけど、やっぱり君は期待を裏切らないね」と言って、冷凍庫に入って一ヶ月眠っていたアイスを無邪気に貪った。時々「冷たいな」なんて言いながら。僕はやっぱりアブラムシを見ていた。ううん、僕はアブラムシを見ていなかった。君のことを見ていた。君の少し焼けた肌とか暑さで熱を持った頬とか化粧っ気のない唇とかを、思い出していた。

 

今の君を見つめずに過去の君を、僕はずっと思い出していた。